身体障害自動車運転者の先駆者
原 徳明様
First Japanese Driver with Heavy Physical Disability,
Mr. Noriaki Hara

(このページはまだ作成中で、今後さらに各種の資料を充実させる予定です。)

自動車に乗り込もうとしている原徳明氏の写真

「身体障害者が自動車を運転することは犯罪的行為」
と考えられていたのは、ほんの40年前の話!!

 最近日本国内でも車椅子マークを付けた車と出会うことは珍しいことではなくなりました。
 運転者本人が身体障害者の場合もあれば、家族が身体障害者という場合もあります。運転者本人あるいは家族が身体障害者である場合には「駐車禁止除外」の指定を受けることができ、少し古いデータですが平成11年現在で、本人用として173,207件、介護家族用として165,671件、合計338,878件の申請が受理されています。
 現在、身体障害者にとって自動車は、日常生活を営む上でも、働く上でも、絶対欠かすことのできない「生活必需品」になっており、ある意味で一番重要な「福祉用具」になっています。自動車のない生活は考えられないという身体障害者はこのホームページを作っている私自身を含めて数知れません。
 しかし、このような恵まれた状況は自然にできたものではありません。先人が、はらわたの煮えくり返るような悔しさに耐えながら、血の滲むような苦労をしてくれたからこそ実現したものなのです。今でこそ身体障害者にも生きる権利があることは誰も疑いませんが、ほんの40年前には身体障害者が自動車を運転するということは「犯罪的行為」と見做されていました。
 そうした環境の中で、重い障害を克服し、自ら自分用の自動車を製作し、法律の壁を打ち破り、さらに全国の身体障害運転者の会を組織した先駆者が山梨県甲府市にいました。それがこのページで紹介する原 徳明(はら のりあき)様(82歳)です。

原 徳明様の歩んだ道 (毎日新聞昭和57年12月12日の記事から)

 昭和57年と少し古いですが、原 徳明様を紹介する毎日新聞の記事がありますので、それを紹介することで原 徳明様の歩まれた道を紹介します。

(下の新聞の画像をクリックすると紙面を拡大したページが表示されます。)


1982年(昭和57年)12月12日
毎日新聞 「にんげん劇場」


生きているうちは修業 寝る間を惜しみ考案


体の障害をアイデアで乗り越えた
原 徳明さん(62)
甲府市里吉○の○○の○○ 注)
注) 元々の記事には住所が載せられていますが、プライバシー保護のため伏せさせて頂きます。


 「やってできんことはない。結局意地ひとつ」。原徳明(62)。下半身マヒの一級障害者ながら、自らの創意工夫で軽三輪自動車など機械製造、建築下請け業で見事に自立、技術を生かして身障者のために自動車を改造したり、運転技術を教えるなどの身障者運転者協会活動を通じ、身障者福祉に力をそそぎ、今秋、県政功績者に選べれた。

下半身マヒに

 原は、甲府市里吉の養蚕農家に大正九年、八人兄弟の二男として生まれた。「小さいころは、わんぱくで手がつけられなかったそうです」というように、小学校に入学しても一日としてけんかをやらない日はないぐらいだった。ところが、小学一年の夏休みが終わるころ、突然四〇度以上の高熱を出し意識不明の状態が三週間続いた。両親らの寝ずの看病もかいなく、熱が下がった時には下半身マヒとなっていた。診断は脳せき髄膜炎。「何とか障害を治せないものか---」。両親は原を背負い来る日も来る日も甲府や東京のマッサージや病院に通った。五年間続けたが東京の大学病院で「もう治らない、あきらめるしかない」と宣告された。十二歳(昭和七年)になっていた。

手回し三輪車考案

 病気後、通学できず「一年生一学期にカタカナを覚えた程度。十二歳の時、”勉強するか”と言われたが、今のような養護学校もなく、学校に戻って年下の子と一緒に勉強する気になれなかった」。そこで東京で飾り物の店を営んでいたおじの元へ修業に出たが、仕事に慣れず、体の調子もいまひとつで四年後には実家に戻った。家族は「お前一人ぐらい、わしやお前の兄弟が面倒みる。おとなしくしてろ」と。
 しかし、生来の負けずぎらい。発病前まで一緒に遊んでいた友だちが運動会やお祭りと外を走り回るのを見て「悔しくて。同じ年ごろの子に負けたくない、何とか外へ出たいと思った」。この一心と工作好きがアイデアを生み、手回し三輪車を昭和十一年に考案、知り合いの自転車屋の主人に作ってもらい、”足”を手に入れた。最初の機械考案だった。
 出来上がったその日は一日中自宅周辺を走り回った。「家から外へ出た時のうれしさは今でも忘れない。何といっていいか、うれしいとしか言い表しようがなかった」
 当時は車いすがないため、両手で不自由な両足を動かして歩けるように訓練。今では車いすを持っているものの、使わずにどこでも歩き、仕事で屋根にも上る。

頭で勝負しよう

 この三輪車考案が原の転機となった。「おもしろいもので一つ考えつくと、次々にアイデアが浮かんできた。これから生きて行くには自分に便利な機械を作り、不自由さを補って同級生や健康な人に対抗するしかない。頭で勝負しよう」。三輪車考案後、農機具修理、改良の仕事を始めた。
 学校に満足に行けなかったが、「人に教わるのはシャクだから」と仕事をしながら見よう見まね、創意工夫による研究、独学が始まった。新聞ぐらい読めるようにと辞書も真っ黒に。
 本格的な機械製作は、モーターで動く「むしろ製造機」が第一号。両親が二人がかりでむしろを編んでいるのを見て「少しは楽にできないか」と思ったのがきっかけ。機械の仕組み、部品、製作方法を知るため鉄工場、機械工場など見学した。甲府駅では蒸気機関車を一日中見ていたことも。「これはと思うところは見学して歩いた。」自分の目で見て、確かめて、取り入れられる技術をぬすみ、わからないことは徹底的に考え、工夫、工作法や技術を考えました」。むしろ製造機は十七歳から四年がかりで昭和十六年に完成させた。

考案は百種類に

 むしろ製造機を作るための試行錯誤の繰り返しで基礎技術を身につけ、実家の敷地内に工場をつくり本格的に機械製造を始めた。まじめでがんこな性格、他に目もくれず徹底した研究熱心さ。高度な技術をだんだん見につけていく。
 昭和十六年ごろから二年がかりで自動ミシン針製造機、その間にも印材製造機を製作。印材製造機は東京の印章会社が大量生産のため機械の権利を当時、四千年で買い上げた。「二つの機械は機械製造会社の専門家などが見にきた。初めて世に認められてうれしかった」と振り返る。この金を元手に工員を使ってミシン針を生産。ミシン針は当時、外国製しかない貴重品で、よく売れたが、甲府空襲で工場は操業中止に。
 戦後は、農機具製造で現在地に独立。二十二年には妻富代(61)と結婚。一男二女にも恵まれた。富代は機械の取り付け、溶接など原の”手足”となった。この内助の功により原は次々と新アイデアによる機械を考案した。市内の業者に採用された機械は紡綿機、織機、パン用ミキサー、小型耕運機、軽三輪自動車、太陽熱温水機、ブドウ用消毒機など。考案数は百種類、うち五十種類が「原式」の名で製造、販売された。

障害者向け車も

 なかでも軽三輪自動車は「自由に外で動きたい」という原の念願を実らせたもの。二十七年ごろから考案を始め、市内の農機具会社の開発依頼もあって本格的に取り組み、三年後に完成。改良を重ね三十二年には東京陸運局の型式認定も受け、製造販売。自動車メーカーが軽三輪車を発売したのはその三年後だった。
 自動車開発に併せ二十八年に、自作の軽三輪自動車で障害者では全国初の県発行運転許可証を取得、三十年には正式な運転免許証をとり、仕事などで走り回った。今ほど障害者の運転に対する理解がない時に、警察、陸運事務所などとねばり強く交渉した結果で、画期的なことだった。「自分のような障害者の活動範囲を広げ仲間を増やそう」と障害者が市販の車を運転できる装置も開発製作した。四十二年には県身障者運転者会を全国で始めて設立。「多くの仲間を」と四十八年、日本身障運転者協会を設立、会長に。

愛車で全国の旅へ

 一方で、四十年ごろから「いろいろやってきて機械考案にも疲れてきたので少し落ち着きたくなった」と鉄骨建築下請け業に仕事を転換。”仕事の虫”は変わらず、その間に長男徳男(34)を仕込み後継ぎに。
 「私のような障害者に仕事が来るのは、使いやすい、いいものを丁寧に安くつくり、アフタケアも責任をもってやってきたからと思います。技術力をかってくれたことであり、これからもそれに応えなければ」と話す。
 寝る間も惜しんでの努力、不屈の精神で障害を乗り越えてきた。「本当におもしろかった」機械のことを話す時、目が何かを見つめた子供の目のように輝く。このすばらしい自立に、三十七年に県知事、四十五年厚生大臣が原を表彰している。
 「生きているうちは修業。これでいいということはない」と相変わらず仕事現場を動き回っている原は「研究はまだ続けるが一生懸命遊ぼうと思っている」と孫を抱きながら好々爺の表情。身障運転者会の仲間と愛車で全国を旅するのを楽しみにしている。

自動車を運転中の原徳明氏の写真

(敬称略)


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